目覚めよ、実は絶望とは光への扉(Retrun To The GOD)

人はおおまかに3つに分類できる。 一つは、現実の世界に没頭している者 二つは、意識の世界に気づいた者 三つは、存在への回帰の帰路へ立った者。このブログは三つ目の人用

妄信してはならない

妄信してはならない。
何も妄信してはしてはいけません。


それは、このブログでわたしが書いたことも含みます。


どうぞ信じないでください。
信じることは役に立ちません。


わたしはあなたに、体験することで知ること、として伝えています。
伝えていることは、信じて知ることはできないために。。です。


信じるという精神活動でことが成就するのは、世界についてだけです。
自身を知ることには役に立ちません。
信じようとするそれ、その精神活動が、
あなた自身を覆い隠すのです。


この現実、昨今は特に思考主義です。
考えて役に立ちそうなら選ぶ、
証拠や確証があるなら信じる、
効率的、頭が良いことが美化され、
そういった損得勘定に慣れ親しみ、もはや当たり前のようになっています。
ですから、
このブログに辿り着いても、
信じることで片づけようと取り組むことかもしれません。



だから、信じないで下さい。
ですが、受け入れて下さい。
体験しようと試す意思で姿勢でこのブログと膝を交えて下さい。


因みに、このネット社会というものは、
本質的で稀少な情報に容易に接することを可能しました。
ですが、一方で
本質のように見える紛らわしい情報もそれ以上に氾濫しています。


存在の観点から見ると、
偽りは偽りを偽りとして知ることができる機会と証拠の提示という意味合いで
それはそれでとても良いことなのです。
信じれるなら信じて下さい。
そしてその分だけ、ショックという衝撃と共に知って下さい。


もしあなたがそのようなスピリチュアルと称する情報に、
腑に落ちない心があったり、何か引っかかったりする感じがして迷うなら、
それを信じようとする自分に気が付いて下さい。
妄信しようとする精神活動であることに気が付いて下さい。
それはちょうど、あなた自身を身体であると信じた精神活動のそれです。
偽りは信じることでしか存在できません。
存在を確立できません。
本質は信じることを必要としません。
信じることとは関係ありません。
信じようが信じまいがあるものはある。
それが本質であり実在というものです。


わたしは誰か、という問いに集中してみてください。
それを唱えるのは、どこでできました?
どこからでてきました?
いつに?
だれが唱えたんでしたっけ?
なら、あなたはそれに違いないでしょう。


実際のところ、あなたはいったい何なのでしょう?


わたしはいま在るという事実をロープとしてあなた自身に辿っていって下さい。


あなた自身を知ったなら、すべては解明します。
紛らわしいものや偽りは、
本質、真実、実在であるあなたによって、
もはやそれらしく見せることはできません。
できませんし、
あなたももはや、確信をもってそのように見ることができません。

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