目覚めよ、実は絶望とは光への扉(Retrun To The GOD)

人はおおまかに3つに分類できる。 一つは、現実の世界に没頭している者 二つは、意識の世界に気づいた者 三つは、存在への回帰の帰路へ立った者。このブログは三つ目の人用

問題の全てを解決する方法

この世界には、様々な問題があるように見えます。
丁度今日は、台風が日本の関東に上陸しており、
災害が起きていて、世界環境もその一つと数えられるでしょう。


中東での戦争や各地での貧困、香港のデモ、世界の環境、他状況はたくさんありますし、
たとえ、このような地球規模、世界という舞台じゃなくても、
身近な個人においての環境や状況、身体的、精神的なものあげたら問題だらけの世界のように見えます。


もし、これらの問題があることによって、苦しむあなたがいるのなら、
そしてこのブログに辿り着いたのなら、
それらの問題の全てを根こそぎ取り除く道を、あなたは歩む時かもしれません。


遠く離れた海外で起きてるあなたと関係のないように感じる問題も、
身近なあなた自身に降りかかってる直接的な問題も、
根っこは同じです。


その根っことは、
問題であると認識した意識活動、あなたが問題だと受け入れたことです。
それが発端で在り、問題をいつまで経っても尽きさせない直接的な原因です。
実際、現実や世界の現象に問題というものが存在しているわけではありません。
それはそうあるだけの現実や現象を、意識が問題としてでっち上げただけです。
意識、思考は能動的であり活動が大好きです。
問題というものを作っては片づけ、片付けばせっせと現象を探し問題を作ります。
なぜなら意識、思考、自我は問題の解消に解放感や満足感という歓びを感じるからです。
問題がなくなっては困るのです。
しかし客観的にみれば、このループはとても意味がないことに気づきます。
ですので、問題を終わらせたければ、問題を作るのをやめることです。


少しガッカリしたかもしれませんが、
あなたがこの問題を解決した後の状態は、
そのガッカリした思考には想像もつかない事でしょう。
それは、思考や自我の命日でもあります。


問題の核心
それは、あなたがあなたを誤認してることです。
あなたは自身を身体である、この世界の中に生きているものである。
と自覚しており、その自覚は周囲や世界から影響を受ける者という認識を生み出しています。
従って、問題の解決方法は


あなた自身を知ることです。
誤解、誤認を解くことです。



実際のところ、あなたは何者ですか?



あなたがあなた自身を知ることは本来とても簡単なことです。
ですが、実際はとても難しいです根気が必要となります。
というのも、
今のあなたは、あなたを誤認しています。
誤認している自覚というよりも、むしろ信じて疑ってもいません。
それに輪をかけて、認識しようとするその意識活動自体が見えないメガネとなって、
本来のあなたを認識できない事態に陥いります。
ですから、誤認するという結果になってる訳なのですが。


難しい理由が伝わったでしょうか?
ですが、この課題を超えて下さい。
人は、この課題の為に転生を繰り返しています。
これを課題だと思えない人も、この課題を課題とするべく生を経験しています。


あなたがあなた自身を知るためには、あなた自身を観察するしかありません。
調べるには、子供の夏休み研究と同じ方法をとるしかありません。
その観察の過程で時折、あなたはあなた自身を見ることになります。
しかし大抵の時は、調べようとするあなた自身の意識活動、思考、自我を見る羽目になります。
これが
認識しようとするその意識活動自体の見えないメガネです。


ですが、ガッカリしないでください。
あなた自身が見えないと諦めないで下さい。


この調べよう、自身をみようと求めることの真の意は、
意外に実は、そこにあるのです。
あなた自身が何か?直接的にみるためかと思いきや、
実はそうではなく
意識活動が邪魔である、余計である、と体験として気づいたら課題はクリアです。
意識が意識を相殺します。
邪魔である意識、求める意識がなくなった時、本質のあなたが露わになるのです。


あなたはあなたです。
これに意を唱える人はいないでしょう。
ですから、あなたがあなたでいることにおいて、何の努力もいらなかったのです。
意識活動とは、努力のようなもの。
意識活動自体が自身を誤認するきかっけだったことに気づきがもたらされます。


思考は効率的です。
それ故かどうか、パラドックスというものが理解できません。
はっきり言えば、
自身を知ることにおいて、求めることは無駄です。余計です。
しかし、無駄であると知ることは無駄ではないのです。
求め、そして無駄と知り、求め辞めた時、求めるものが得られます。


思考は、・・であるなら、最初から求めないという選択をします。
しかし、この求めないことと求めることを辞める、放棄するは、
本質的に、潜在的にまったく意味が違うのです。


思考によるその求めないは=私はいらない、と同義です。
求めるを放棄するは、必要ないという本質であり、私はいらないとは違うのです。
求めることをし、求めないことという理解に至った時の求めないという表現も
同じ言葉でありながら意味が違うことでしょう。
意味が違うその決定的な理由は、自我である「私」がないかその影響が弱くなった点でしょう。


そうして、あなたがあなた自身である時間が増えるに従い、
自覚が少しづつ誤認のあなたから、あなた自身へと移動を始めます。
それは、誤認をする、誤認の自覚に至った経緯と同じです。
自転車も鉄棒も車の運転もそうやって可能になっていきます。
身体や意識は母親から生れて最初は何もなかったのです。
それこそ本質、深層の自分だったのですが、誤認することも例外ではなく、
そうやって繰り返すことで自覚、自我を形成していきました。


気づいた今、あなたは元にもどります。
それは帰路です。
その元とは、呼び名は何でもよいでしょう。
神でも、大いなる存在でも、特異点でも名には何も意味も力もありませんから。


ただあなたは元に戻り、自身として在り続けるでしょう。
そうするほかないことも知るでしょう。
行くべきところ、場所なんてのも幻想であり、今ここしかないことも理解します。
そのような視点から観る世界やこの身体は、まるで寝てみる夢と酷似します。
今まで周囲や世界に対して、もがいていた自分を見て
同レベルにおける意図では変化はもたらすことはできないことを知るでしょう。
周囲や世界に対して変化をもたらすには、
その上のレベルの存在の立場、視点、自覚から促す必要があり、
実際これまでもそうでしたが、
自我が勝手に自分が、身体が、行為し結果を生んでいると思い込んでいただけだった事実も知るでしょう。



あなたが自身の本性に気づき問題がなくなることを例えるなら、
もし寝てみる夢で自身が何かまずい状態に陥った時、
夢とは知らずに、その問題に一生懸命に対処するはずですが、
起きてからも真剣に考えますか?
あの時こうしたけど、あれはまずかったよなぁ、ヤバいよなぁ、あ~困ったなぁとか思いますか?
むしろ、夢だったのか!あぁ良かったで、終わりじゃないですか?


本当の自分に立ち返った際には、
目覚めた者として似たような価値観で世界をみます。安らぎと平穏の中で。
問題がなくなった者において、
余計な意識が働かなくなった者において、
この世界で困ったような人をもし見かけたなら、
余計な考えがおきない為、
見返りや損得勘定や思いなしに恐れなしに愛ゆえ即、行動が起きます。


思考的には、
問題認識ができなければ、助けることができないと考えがちですが、
これもパラドックスです。
故に、思考には理解できません。




では。

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