目覚めよ、実は絶望とは光への扉(Retrun To The GOD)

人はおおまかに3つに分類できる。 一つは、現実の世界に没頭している者 二つは、意識の世界に気づいた者 三つは、存在への回帰の帰路へ立った者。このブログは三つ目の人用

ちから

今回は、2つのカテゴリーにわけ、ある「力」について順追って伝えていきます。


カテゴリー的には、
・目覚める意識と想像の力。
・神聖なる力。
です。



さて「目覚める意識」についてですが。
過去にこのブログで、あなたは神で体験することを目的にしていると
伝えたことがあります。


改めて直球でいうと、
わたしたちは身体ではありません。
物質ではありません。
過去、わたしたちが自分は身体だと思っていた時は、
心は、
現実や世界は本物だ!真実だ!
物質世界が全てだ!
とそう思っていました。
それもそのはず。
自身は物質である身体だと思っていたのですから、
その世界は本物だとする考えは、
もっともであり理にかなっています。


ですが、
その思いまたは精神活動はそれ自ずから中心的な役割であることを証明しており、
自身は身体ではなく意識であり、無形であるという事実へと気づかせます。
また客観的な具合で別な気づきをもたらします。
それは、


意識が本体であるなら、意識の世界こそ現実である。
という気づきです。
それは超現実の世界への入り口です。


つまり、現実がどうであれ、意識で感じたことやものが、
最終的にその人にとっての現実であり、
受け取る体験であるということです。


更にかみ砕き例えるなら、
あなたは今大好きな彼氏、彼女、夫や妻と一緒の時間を過ごしているとして、
端からみればとても幸せそうです。
しかし、本人の内心では、
今それよりも・・・友達とわいわいしたい、
独りになって仕事のこと考えたい、
病院に行ってあれやってこれやって・・あぁ早く帰らなくちゃ。
って思っていたとしたらどうでしょう?
彼氏や彼女、夫や妻が欲する人達からみれば羨ましい限りのはずです。
ですが、その人にとっての現実はどちらですか?



幸せですか?不満ですか?
どうでしょうか?



物理的ではそうでありながらも、
心や意識でそうでないと感じるなら、
あなたにとっての現実は心や意識の世界の方です。


ですから、意識、無形である我々が、
その視点にたって体験と言った場合には、
心や意識の在り様を感じるという意味を指します。
そして細かく言うと、
嫌な気持ちを味わうとか、
楽しい気持ちを味わうとか、
そういう部分的な、部品的な感情のことではありません。


心、意識の在り様とは、
身近な言葉で言えば、もっと総称したもの、
雰囲気、感じ、オーラ、波動のことです。
これらに違いがあるわけではありません。
どれも同じものを示しています。
リンゴを日本語ではりんご、英語ではアップル、フランスではポム。
このケースと同じです。


この雰囲気(自分自身の)やオーラや波動が、
無形である意識の我々にとって現実でありそれを感じ知ることが体験です。
ですから、我々が日常で使う「体験」とは少し意味あいが違って、
物質や行為の経験のことではありません。
様々な世界、時代を行き交う意識の我々にとって、
現代の遊園地のジェットコースターに乗ることや
高級車に乗る経験自体にはさほど意味はありません。
そうではなくて、
それらと同時に現れている
雰囲気、感じ、オーラ、波動それを感じることが体験です。


厳密に言えば、物質とそれら雰囲気、感じ、オーラ、波動は分けることはできません。
物質がそれらであり、それらが物質であると言えます。
昔に聞いた歌や
昔に嗅いだ匂いや
春や夏や秋や冬が来たきっかけに、
ふと過去の記憶がよみがえった、思い出したりした事はあると思いますが、
その時に映像と共にその場、その時代の雰囲気や感じも再現してるはずです。
ですから、それらは分けることもできなければ別々のものでもありません。
それらは意識にとっては身体に等しいものであり、
無形から有形になるまたは、大いなる存在と個我、自我の連結部分でもあります。


大半の人が無自覚ではありますが、
人は皆、雰囲気をまとっています。
その人の感じ、オーラを放っています。
波動を出しています。
今、自分ってどんな感じを放ってるか?
感じてみてください。



まさしくそれが、創造の力です。



感じるそれは、体験されると認識できない程に薄れ消えていきます。
そしてそれを体験している体験者、己自身だけが浮き彫りになってきます。
それは「在る」という存在ですが、
その構図は、
体験者の存在の中に体験や現実は現われ消えていく様です。
現実と体験と体験者は、在るというひとくくりの中で起こっているのです。
自身という存在は、物質も意識も超越している何かです。



余談ですが、
世界や聖地と呼ばれる場所や書物や遺物には、
悟りを探求する者に答えを示す言葉として、


私は在りて在る者である。


という言葉があります。
「在る」ということの神秘性や真理や真実を直接的に表した言葉で、
古い昔から伝えられている文言です。
今日は新天皇陛下の御即位に際し、即位礼正殿の儀が行われますが、
天皇家が引き継ぐ三種の神器の一つ、
八咫鏡の裏面には古い言葉でその言葉が記されているそうです。



話は戻りますが、
在る、
ということの心理、真実を知ること


それが目覚める意識です。


目覚める意識と創造の力は連動しています。
目覚める意識はまだ知識に似たものです。
目覚める意識が創造の力(雰囲気、感じ)を体験、
体現することで同化していき、目覚めた意識となります。
それを知識ではなく実行し経験すること、体験することが、
自覚や信念というスパイス役を作ります。
目覚める意識と創造の力はそのスパイスの一振りにより、
目覚めた意識という一つの料理に仕上がるようなものです。
ですから創造の力と目覚めた意識を分けることはできません。


結果、目覚めた意識または目覚めるに従い、
現実の望み方、創り方、力点を日常の生活、現象化から知ることでしょう。(後日に再度
活動もゆったりしていき、宇宙のリズムを感じることができます。
もし時間と呼ぶのなら、その宇宙のリズムこそがそうであると理解します。
それはシンクロニシティというタイミングが起こる時間軸でもあります。




今回はここまで。
次回は神聖なる力。

アセンションとか

ネット、特にユーチューブなどで、
アセンションや次元上昇やチャネリングというものを
発信しているケースがあります。


近年になって段々と多くなっているのではないでしょうか。


結局のところ、アセンションや次元上昇って具体的に何か。
ってことを伝える試みをする方もチラホラ出てきているようですが、
言葉にするのは難しいようで、
要するに、分離感を統合することと伝えている方をみました。
そう言い放ちながらも、いまいち不納得の表情がとても印象に残りました。


「本当の自分自身」への気づき方は人の数ほどあります。
無限にあります。
それぞれにユニークな方法を辿り、自分自身へと気づきます。


わたしは、直接ダイレクトに自分自身に気づくことを伝えていますが、
先の用のように、チャネリングやアセンション、次元上昇することを試みた結果、
知る方もきっといるのでしょう。


仮に、人がアセンションや次元上昇ができるとして。
統合と言われるそれを試みることで、できるものとして。
次元上昇という発想は、今自分が3次元にいるとの認識や解釈をすることで、
やっとその発想ができます。
そして4次元へ行くんだと思えます。
つまり次元上昇とは、
別の言い回しをするなら、
次元間を移動すると言えます。


しかし、そもそもその目的を叶える前に、
次元間を本当に移動できるして・・
次元間を移動できる、わたしとはいったい何者なのでしょうか?
3次元的な物質ではないことには間違いないでしょう。
そして、自身が次元的制約がない何者かであるなら、
この3次元を旅行的、ゲーム的に体験していることの何が問題なのでしょう?
急いで体験を終わらせなければいけない理由は何かあるでしょうか?


わたしたちが自身で興味を持った場所に旅行に行ったとして、
せっかくお金をためて、
時間をつくって、
計画や予約までをきちんとたてて旅行先にやっときたのに、
早く帰ろう、早く、早くってどういうことなのでしょう?
自身で興味を持った世界に、自身の意思や選択で来た今があるのです。



さて、話の角度を変えます。
今まで、自身は身体である、との思考の誤認によって、
私たちは身体なんだ、名前はこうで、女で男で・・他・・と自覚していました。
自分自身は物質に囲まれた世界に身を置いていると思っていました。
無意識ですから、思うことすらなしに当然のこととして自覚していました。
それが3次元意識であり、3次元世界です。


そして、自身を調べることで、
自身は身体ではない、性別もない、
認識できる何かもない、無形であり、
認識できる何かを強いて言うなら、在る、という感覚しかない。
自身をそういう存在であると自覚したとき、
自身は3次元にいたのではない、という理解が起こります。
更には、この見なれた世界も夢やゲームや何かのように見えます。
そこには、観察している自身がいます。
それはもはや3次元を眺める3次元的な存在ではない何者かです。


それは、3次元から抜け出すという風にも言えます。


つまり、私たちの自覚が私たち自身の次元を変えるのです。
ですから次元が変わり、世界が変わって、そこに私たちが行く、
のではなく、
わたしたちの自覚が変わることで、次元が変わり世界の様子が変わるのです。


これがアセンション、次元上昇と称されているものです。


アセンションや次元上昇をするのは、宇宙ではなく、世界ではなく、あなたです。
あなたに決定権と権限があるのです。


今までの意識的傾向、思考方法で、
何かが起きて世界が変わる、を待つことは今までのことが続いてくだけです。
今までそうでしたし、今までの方法ならこれかも今まで通り。
難しくない理解です。


つまるところ、本当の自身を知りその位置にたってみると、
次元と呼べる何かが存在するわけではないことが分かります。
3次元があって、そこにわたしは高次から降りてきて生まれたというのは、
思考的発想に過ぎません。
個我、自我視点での目線での解釈です。


分離、統合についても同じことが言えます。
そもそも分離などしていないことが理解できます。
それは統合さえ必要ないこと指します。
分離しているという解釈や概念が、
統合が必要であるという解釈や概念を生んだに過ぎません。
2を概念化してしまったため、1が存在してしまったのです。


実際は、生死というものがない、永遠で在る唯一無二の自身が、
次元や物質、アセンションやチャネリング、人と呼称されるものが生きるという設定の
映画、
夢、
物語、
ゲーム、
を観ているにすぎません。

妄信してはならない

妄信してはならない。
何も妄信してはしてはいけません。


それは、このブログでわたしが書いたことも含みます。


どうぞ信じないでください。
信じることは役に立ちません。


わたしはあなたに、体験することで知ること、として伝えています。
伝えていることは、信じて知ることはできないために。。です。


信じるという精神活動でことが成就するのは、世界についてだけです。
自身を知ることには役に立ちません。
信じようとするそれ、その精神活動が、
あなた自身を覆い隠すのです。


この現実、昨今は特に思考主義です。
考えて役に立ちそうなら選ぶ、
証拠や確証があるなら信じる、
効率的、頭が良いことが美化され、
そういった損得勘定に慣れ親しみ、もはや当たり前のようになっています。
ですから、
このブログに辿り着いても、
信じることで片づけようと取り組むことかもしれません。



だから、信じないで下さい。
ですが、受け入れて下さい。
体験しようと試す意思で姿勢でこのブログと膝を交えて下さい。


因みに、このネット社会というものは、
本質的で稀少な情報に容易に接することを可能しました。
ですが、一方で
本質のように見える紛らわしい情報もそれ以上に氾濫しています。


存在の観点から見ると、
偽りは偽りを偽りとして知ることができる機会と証拠の提示という意味合いで
それはそれでとても良いことなのです。
信じれるなら信じて下さい。
そしてその分だけ、ショックという衝撃と共に知って下さい。


もしあなたがそのようなスピリチュアルと称する情報に、
腑に落ちない心があったり、何か引っかかったりする感じがして迷うなら、
それを信じようとする自分に気が付いて下さい。
妄信しようとする精神活動であることに気が付いて下さい。
それはちょうど、あなた自身を身体であると信じた精神活動のそれです。
偽りは信じることでしか存在できません。
存在を確立できません。
本質は信じることを必要としません。
信じることとは関係ありません。
信じようが信じまいがあるものはある。
それが本質であり実在というものです。


わたしは誰か、という問いに集中してみてください。
それを唱えるのは、どこでできました?
どこからでてきました?
いつに?
だれが唱えたんでしたっけ?
なら、あなたはそれに違いないでしょう。


実際のところ、あなたはいったい何なのでしょう?


わたしはいま在るという事実をロープとしてあなた自身に辿っていって下さい。


あなた自身を知ったなら、すべては解明します。
紛らわしいものや偽りは、
本質、真実、実在であるあなたによって、
もはやそれらしく見せることはできません。
できませんし、
あなたももはや、確信をもってそのように見ることができません。