目覚めよ、実は絶望とは光への扉(Retrun To The GOD)

人はおおまかに3つに分類できる。 一つは、現実の世界に没頭している者 二つは、意識の世界に気づいた者 三つは、存在への回帰の帰路へ立った者。このブログは三つ目の人用

必要なこと2つめ

人生に必要な事は3つ。


1つは、自分と向き合うこと。
2つは、価値観や考えを捨てること。
3つは、今を、日常の生活を体験すること。



今日は、2つ目の「捨てること」。


人は誰もが心に、考えや価値観、理想を持っています。
小さい頃に、道徳、教育として身に着けたり、
人生を経験する中で教訓として得たり、
人生の目標として憧れ、夢、希望として得たりして。


目的はなんでしょうか?
それは人類だれしもの願い、幸せになるためでしょう。


善い人間なれば報われ幸せになれるから、なれるはず。
善いことをすれば報われ幸せになれるから、なれるはず。
あれになれれば幸せなれるから、なれるはず。
あれを手入れれば幸せになれるから、なれるはず。


ですが、その一方で、
人を批判すること、人を裁くこと、
自分を否定すること、自分を卑下するなどを
同じ量だけ量産し、苦しみ、憎しみ、不幸を拵えたことには無知のようです。


この世界は、2極の世界、比較で成り立つ世界です。
上と下、熱い寒い、善と悪、北と南、陽と陰、良いとダメなどなど、あげたらきりがありません。


上というものが存在するには下が必要です。
善という存在には悪という存在が必要です。
どの対象も、反対の存在がその反対の存在に依存し際立たせています。
すなわち、意図しないとはいえ
善を作った時、同時に悪ができあがりました。
何かを、これは善であると解釈したとたん、
同時に摂理として悪の存在も出来上がりました。
もっと具体的にすると、
あなたがこれは善いことと解釈、認識、考えたとたん、
反対のこれ、若しくはその善いことをしないは悪いこと、これをしないは悪い人、これができないは悪い人という悪の存在、批判の対象、裁きの対象をつくってしまったのです。


人類の思考は、それを理解せず、意図しなかったとはいえ、
どんどん善いこととする決めつけや考えを増やし、
道徳や常識として構築していきました。
あなたがもし、自分の人生を思い返すなら、
あなたの怒りや不安、恐れ、イライラの幾つかが、これに起因したものであったことを知るはずです。
些細なことなら、挨拶しない人とか。
社会では挨拶は基本と言われていますし、
リーマン時代、実際わたしもそうでした。
挨拶できないやつは仕事もできないやつと批判していました。
世界の争い、国と国の争いでさえも例外ではありません。
お互いが自分の価値観において、反対の悪い人や国と決めつけて戦争しています。


そして同時に、
良いことだからしなくちゃとか悪いことだからしてはいけないとかの考えは、
あなたを縛る、制限をもうける、鎖のようなものであったことも知るでしょう。
更に、この束縛があなたがそう信じ込んでいる、思っている、考えているという精神的な力である限り、あなたがたった今、この瞬間それを断ち切りほどき、自由になれるという裏返しでもあり、意識以外何も必要ありません。


鍵がどこかにあるわけではありません。
世界を自分の思うように変えることが幸せの鍵ではないのです。
他人を自分の支配においたり、他人をコントロールすることが鍵ではないのです。
これを読んでいるあなたのその意識が鍵であり、
あなたの信じて疑いもしない、当然や常識の考えがドアです。
どちらもあなたが持っていてます。
あなたの世界から、
悪い、悪い人、ダメな自分、
辛い、苦しい、責める、裁く等を失くすには、
あなたの見るという意識の鍵で、
あなたの中にある考えや解釈や認識というドアを開けて失くしてください。


他に、
善がなくなったらこの世界はおかしくなると思いますか?
そう考えるのは、2極化思考の得技ですが、
質問を逆にしてみて下さい。
悪がなくなったら、この世界はおかしくなるかと。
答えを言うなら、
愛でやりとりされる世界となるでしょう。
しかしこれは思考では理解は難しいでしょう。
だけど、理解して知れなくても、体験して知ることができます。
どうかあなたという存在が、愛そのもの、自由そのもの、であることを知って下さい。


心は何層もに分かれます。
深部のものを掴むには、根気よく、心のものを捨てていくしかありません。


これも例えれば、
ゴミ屋敷のようなもの。
ゴミがたんまりのゴミ屋敷で埃がごみであるという認識はもてません。
埃ですらマシにしか見えないし、印象につかないでしょう。
その他のゴミが多すぎて。


方や潔癖症の人の部屋は、
埃でさえ、ゴミっ!!!!!って感じです。


つまり、心の深部の繊細なそれは、
心を掃除してキレイにしてやっと露わになるものです。


だから根気よく発見しては捨て、発見しては捨てを繰り返して下さい。
そうするうちにだんだんと思いや気持ちを発見した際に、
あれ、これちょっと深いとこにあったやつだなと感が伴いはじめ、
やがて深層に至ります。
そして、コアへ到達したあなたは、驚愕の事実を知るでしょう。



毎日、静かな時間をつくり、自分と向き合います。
心を観察します。捨てるものに例外はありません。
例え命に関することでもです。




●価値観・・
人の命はなによりも大切。捨ててください。
困ってる人を助けるべき。捨てて下さい。
他にたくさんあるはずです。一つ一つ捨てて下さい。
その思いが消えるまで、見て下さい。
その思いが消えるとあなたの意識はそれを見る集中力がなくなります。
それで良いのです。
対象を掴めないほどに消えたということです。
その思いはあなたをコントロールする力を失いました。


浮かばない時は、重要なこと・・・・って心で呟くと、コレって感じで心に浮かびます。
それで対象を発見したりしてください。


●善悪・・
嘘は悪いこと。捨てて下さい。
人に親切は良いこと。捨てて下さい。
他にたくさんあるはずです。一つ一つ捨てて下さい。
その思いが消えるまで、見て下さい。
その思いが消えるとあなたの意識はそれを見る集中力がなくなります。
それで良いのです。
対象を掴めないほどに消えたということです。
その思いはあなたをコントロールする力を失いました。


浮かばない時は、良いことって何?とか、するべきこと・・・・って心で呟くと、コレって感じで心に浮かびます。
それで対象を発見したりしてください。



●理想・・
奇麗になりたい。捨てて下さい。
幸せになりたい。捨てて下さい。
お金持ちになりたい。捨てて下さい。
他にもたくさんあるはずです。一つ一つ捨てて下さい。
その思いが消えるまで、見て下さい。
その思いが消えるとあなたの意識はそれを見る集中力がなくなります。
それで良いのです。
対象を掴めないほどに消えたということです。
その思いはあなたをコントロールする力を失いました。


浮かばない時は、なりたい人・・・・って心で呟くと、コレって感じで心に浮かびます。
それで対象を発見したりしてください。



何度も言いますが、
捨てることは、それはいらないとか、そうならないとか、それは良い事じゃないとか、否定、思い込むことではありません。新しい考え、価値観を入れないでください。
心、思考は行動派で思う事、やることが大好きです。ですから、人は思う事に慣れているので、勘違いしないように。。
また、成りたい自分を明確にするというスピリチュアル情報が大変多いです。
それは、まだ頑張りたい方用、もがきたい方用で若い魂用です。
同じ括りにすると混乱します。別物と思って下さい。
成りたい自分を明確化するということは、顕在意識の価値観を用いるということ。
古い魂の私たちは過去に飽きる程これを行いました。
ですから、もういいかなと次のステージをプレイしようと思っている魂です。
捨てることは、顕在意識の価値観を弱め、深層で働いている本当の自分の方を顕現化することです。



話を戻すと、
掴み、捨てる癖がつくと、静かな時間に自分と向き合う以外に
日常生活の中でも、意識は心のわだかまりを掴みます。その都度捨てましょう。
むしろ、日常生活の方が心のわだかまり浮き彫りにさせ、感情となって現れます。
他人、人間関係というのは、真実のところこの為に存在してると言っても良いのです。
あなたにそこに心のわだかまり、決めつけがあるよと感情を揺さぶることをサインとして教えてくれるのです。


実際、一人座って捨てることをしていると、次第に発見しずらくなってきます。


だけど、会社に行ったり学校行ったり、他人のいるところへ行くと、
心や心象が刺激されて見つけやすいと実感することでしょう。
ですから、
あなたの嫌いな人こそあなたにとって大事な人、
どこかで聴いたようなセリフですが・・・そういうことです。



●価値観追加
嫌いな人ただそれだけでも、ここから導き出せます。
何で嫌いなのか?この感情の元はなんだろうか?
心に聞いて下さい。答えを探さないで下さい。
この感情の元はなんだろうか?ただ聞いて下さい。
この感情の元はなんだろうか?ただ聞いて下さい。
ただ聞いて下さい。答えは探さないでください。期待しないで下さい。
その思いが消えるとあなたの意識はそれを見る集中力がなくなります。
それで良いのです。
対象を掴めないほどに消えたということです。
その思いはあなたをコントロールする力を失いました。



答えが分からない・・それでも良いのです。むしろその方が良いと思って下さい。
下手な解釈は誤解、自我満足を生むだけです。
答えを知ることは歓びですが、それは自我にとってです。
目的は消すことです。エネルギーを流すことです。
あなたのこの顕在意識で答えは分からなくても、
思いや感情が消えるということは、成仏したようなもの。
深いレベルの自分が知ったのだろうと思って下さい。



これをした後、確かめて下さい。自分の体験として。
身体の感じはどうでしょう?
心の感じはどうでしょう?
価値観が減って、しなくちゃいけない!という気持ちが減り、
身体は落ち着いてませんか?時間がゆっくりしてませんか?
善悪が減って、自分を責める独り言が減り、
心は平安を感じてませんか?静寂と安堵で包まれていませんか?
理想が減って、そのギャップに苦しんでいた心、どうでしょうか?


今に平穏や安らぎを感じ満ちて下さい。
未来のいつかではなく、今そうしてください。
お金が貯まった未来にではなく、
愛する人が現れた未来にではなく、
今ここでそうなって下さい。
未来はないのです、
ずっと続く今しかないのです、
だから、今そうなってください。
今なれば、次の今も、その次の今も、その次の次の今もそうであることができます。
未来って、実は「今」のことなんですよ。


今日も長文になってまいました。
今日はこの辺で。では。


次は3の体験することです。

人生に必要な事

必要な事は3つ。


1つは、自分と向き合うこと。
2つは、価値観や考えを捨てること。
3つは、今を、日常の生活を体験すること。


1つの自分と向き合うこととは、自分の心(考えや大事だと思ってること等)を見ること、認識する事です。こう言うと、人はしている、できていると思いがちですが。。心はその深さというか(高低があるわけではないので)次元というか何層かになっています。
従って、人が無意識の範疇でしている、できていると思っているそれは、実行内容としてまで完成された思いや感情でしかありません。


パスタという料理に例えて言うなら、
その人がみているのは、パスタです。
しかし、パスタがパスタになるためには、
水、麺、油、もろもろの具材や調味料と炒めたりという工程が必要です。
そうしてやっとパスタになります。


話を自分と向き合うことに戻すと、
自分と向き合うとは、このパスタというものの要因になっている、原因になっている、
根本になっているもの、具材とかの部分を見つけるということ。
なので、人はしていると思っている、思い込んでいる、勘違いしているだけで、
ほぼできてはいない、していないのが現実です。


世の中を見ればある程度分かります。
テレビ、スマホの普及具合、ネット等の興味がダイレクトに実現できるシステム等々。
こんなに意図も容易く、即座に興味や欲求が反映される環境で、意識を奪われる環境の中で、自分の心に意識を向かわせるのは難しいし、出来るというのが不自然です。
意識を向かわせるベクトルは一つです。何方向も同時にはできません。
必ず、一方向だけです。
ですから、意図的に自分の心に向き合うこと、それをする環境を作らないとできません。


洞察に鋭い人は自然的に意識に敏感なことでしょう。
なぜなら、楽しい気持ち、苦しい気持ち、憎い気持ち等々の感じる気持ちは、
心がこれは楽しいこと、これは来るしいこと、これは憎いことと決めたから、
その気持ちがある。摂理を洞察するため。


それでも心の深部へは意図しなければ入りこめないでしょう。
なので、そうでない人も、
テレビも何もかも消し、時間をつくり、
一人静かに在る時間をつくること。
そして湧いてくる思い、考え、価値観をみたり、感じたりしていくこと。


まず、これが基本というか、定番というか、元というか。
これをしていくうち、意識は心を見る癖がついていきます。
また、思いを見る、感じるとそれが消える現象を体験します。
それは、具体的に嫌な感情が消えたり、思いが消えたりし、リラックス効果を生みます。
あなたを心の中で責めたてるイメージの人や独り言が消えるので当然の事象。
見れば消える、感じれば消えることを心は体感していくので、自然と癖になるのです。
こうなると、日常生活をしていても、心は思いに敏感になります。


大概の人は日常生活の中で、怒りの感情やイライラの感情がでてくると、
間髪入れずに、光の速さで反応します。態度にでます。無意識に。
余りの速さに見るどころか、感情に飲まれ、取り込まれ、その中で行動し反応してるだけです。


静かにあり、心を見る癖がついた人は、
感情が沸き起こると意識が即座に捉えます。飲まれる前に、見るという洞察でそこに、
一呼吸というか、空間というか、間というか時間を作り出すことができるのです。
そしてそこで選択するという余地を作ることができます。
そのまま飲まれることもできます。
まぁまぁと頭を冷やす選択もできます。
違う可能性を見つける選択もできます。


これは誰もがイメージつくはずです。
誰もができていたことです。
年齢が高くなるに従って難しくなってきたかもしれません。
なぜなら、湧いていくる感情の多さは、善悪の考え、常識だとする考えが多ければ多い程、比例します。それに反したらダメ、あの人ダメ、この人ダメ、自分ダメ、この現象ダメ等々。


話を戻すと、
自分と向き合うことで、心を見る癖がつきます。
すると湧いた感情に対して選択の余地ができますが、
それが目的ではありません。
それは、捨てることの準備運動のようなものです。


捨てることをするには、そこにあることを認識せねばなりません。
ないものを捨てることはできないからです。
実際にそこにあるか、ないかと
認識における、あるか、ないかは別です。
大抵の人は、心にそれがあるのに、認識としてはないので、ないと思っています。
なので、湧いてくる自分の感情、考え、現実の解釈に混乱しているのが実情です。
ないと認識している、若しくはあると認識できていない、それにより、人は心を見ることができている、自分は自分を知っていると勘違いを起こしているわけですが。


まるで、小さい子がテーブルの上に自分が飲んでいる水の入ったコップがあることを忘れてか知らずか、人形をブンブン回して遊んでいる様。
そして大事にいたり焦るという。


小さい子は現実でこんなことを起こしますが、
大人は心の中でこんなことを起こしています。




最期に、大事なところを繰り返すと。


静かな時間をつくり、座って(立っては疲れるという理由だけ)
自分の心と向き合うこと。


今日はこの辺で。
次は冒頭の2。

絶望感

絶望という言葉は、この世界では最もネガティブで忌み嫌う言葉の一つでしょう。
しかし、実は意識の世界の視点では、限界ギリギリまで引っ張られたゴムのような状態、弾けそうな風船の状態で、最も永久不変で魂が目指す幸せに近い状態なのです。


なぜなら、その幸せになる最後の扉の鍵は


捨てること


だからです。


現実に対して、もう打つ手がない状態、万策尽きた状態は、
希望が失せた、将来が失せたという心理状態です。
なりたい夢が散った、
なりたい自分にはもう成れない。
こう思えるのは、絶望状態のみです。


夢をもって生きてる人に、
このままいけば夢が叶うと思ってる人に、
いくらあなたの魂の本当の願いの最後の要求がそれを捨てることだと言っても、
目の前に人参がぶら下がってる状態、楽しんでる状態では、
心は捨てるという行為ができません。
そして夢中になれるという視点や状況はそれをまだ楽しむべき時なのです。


なので、


なりたい自分を捨てることができるのは絶望体験している人にしかできません。


たぶん、なんとか復帰してやる、もう一度立ち上がってやるなんて、
思う力もないと思うんだけど。。
あるとすれば、死にたい・・とかでしょうか。
だけど、そうするのはおススメしません。
なぜなら、あなたの魂は、この扉まで到達するに相応しい古い魂なので、
ここで死んでも、次にまた生まれ変わり絶望状態をこしらえて、
また挑戦しようとします。
なので、止めはしないしできないけど、おススメしません。


大概、絶望は、
会社の倒産、お金とか
生活に困窮とか、
信じて疑わない人にまさかの裏切りとか、
愛する人のとの死別とか、
じゃないでしょうか。


その絶望感は成りたい自分や環境の逆の現実やギャップから産まれました。
そして、もう頑張れない、考えたくない、何もかも捨ててしまいたいと思ってることでしょう。抵抗せず、そうしてみましょう。


一人、静かなところで座り、じっとしてください。
心と対面するはずです。否定したり、反抗したり、同意もしないで、ただどんな思いがあるか見て下さい。
お金持ちになりたい私。捨てて下さい。
捨てるとは・・・身近な言葉では諦める捨てることです。
ならないって思うことじゃありません。
新しい考えをこれ以上追加しないでください。
お金を儲けたい。儲けてる自分。捨てて下さい。
友達に恵まれ幸せな私、捨てて下さい。
愛する人の温かい家庭な私、捨てて下さい。
その他、なりたい私あったら捨てて下さい。
目標と呼べるもの、捨てて下さい。


本当は別にやるといいですが、
価値観や善悪の考えが浮かんで来たら全部捨てて下さい。
人に親切にしないといけない、親切は良いこととか善悪の概念は考えでしかありません。
親から子へ、人類何千年と受け継いだ負の遺産ですが、人間の考えでしかありません。
特に善の考えを捨てて下さい。すれば、悪も消えます、すると悪い人という認識も消えます。悪は善があったために出来たことを知るでしょう。


今、ネットのブログやユーチューブで成りたい自分を想像したりして意識することは、
もっとあなたよりもっと若い魂で、まだ現実世界、幻想で遊びたい魂です。
もうそこを過ぎたあなたは大いなる存在へ回帰する為、絶望体験しています。
だから、することが違うと困惑しないで下さい。


捨てましたか?
どんな感じですか?
心はどんな感じですか?
身体は?


何が起こるか確かめて下さい。


なりたい自分を捨てると同時にそれに付随するやらなきゃいけないこともなくなってませんか?
心は軽くなってませんか?
身体は穏やかに落ち着きませんか?


何も変わらない、行動的で不安なら、それは捨てることが足りません。
毎日、毎時、出来るだけ心を見張り価値観や希望を発見し次第、捨てて下さい。
毎日静かな時を自分に作ってあげて下さい。
簡単とは言いません。
ですが、あなたを救う道はこれしかないのです。
あなたが自分を救う道はこれしかないのです。
あなたの深いところに在る魂はこれを望んでいます。要求しています。
逃げても逃げきれません。
死んでも次にもっと過酷な環境に生まれたりもっと強く望んできます。
こういうと魂を恨むかもしれませんが、あなたもそれに賛成して生まれてくるのです。
だから逃げないで下さい。


ところで、十分捨てきると・・・
やる気が起きません。。。。。
やりたいこともやらなくちゃいけないことも捨てたので、行動できません。
だから在るしか、いることしかできません。
あのブッタも王家である家を捨て、何もかも捨て、救われると信じたヨガ瞑想にふけりにふけって最後意味がないと認識したとき、死から逃れる、救われるその望みを立たれ絶望しました。月の出ていた夜、大きな木に持たれて月を眺めることしかできませんでした。
やがて月に語り掛けられ、涙を流したそう。彼は月に言われた通り、かつて瞑想を共にしていた使徒を訪ね、教えを伝え、それが波及し組織になり仏教になりました。


話がそれましましたが、
心象を与えたくないですが。。
そうして、心の軽さ、身体の落ち着き、心地よさを体験していると、


落ち着いた身体は、自然の中に同化していきます。
あなたが部屋にいるなら、部屋の家具や雰囲気に同化していくことでしょう。
そのまま体験してると、意識も自然の中へ同化、溶け込んでいきます。
自分の身体が全体の一部のように認識します。
他の存在より秀でても劣ってもなく、ただ世界の中で働く一部のような。
その時、あなたの意識はこの現実の世界のバックグランドで働いていた存在に気づくか、
それと同化します。
あなたが神、大いなる存在、ハイヤーセルフと呼ばれるものと対面のときです。
その状態の時、あなたにそっとアドバイス・・というより使命や方向性を伝えられたりします。
なぜなら、表現しずらいですが、
何もする気がおきない・・というより、やりたい、することを捨ててしまったので、
方向性がない、行動欲が減少しているというか。
心を見張ることができているなら気づきますが、自我が子犬や子猫のようにあたふたと戸惑うところを見るでしょう。これはなかなかみれない現象です。目標がない為、手段が消え手段を講ずるという自我最大の仕事がなくなって戸惑っているのです。


なので、大いなる存在はあなたに方向性を伝えてきます。
と同時にあなたは、その内容よりも、その声自体に注目することでしょう。
その声は、とても柔らかな優しさで、一つの違和感もなく、とても懐かしく、とても安心できて、まるで赤ちゃんを優しくあやす母親の声のようなものだからです。
もしかしたら涙がでてくるかもしれません。
そして、その存在然り、内容はこれまで慣れしたんだ考えや思考の独り言ではなく存在の声だと本能的に明らかに分かることでしょう。
と同時に、その方向性の環境を存在が設えるという変な自信もわいてくることでしょう。
あなたの意識は調和のもとにゆったりとありそして、その身体と意思は神の手となったことに気づいていきます。


あなたが、あなたの意識の深いところが今生で望んでいることが、こんな感じです。


長文読んで頂きありがとうございます。
書くの疲れましたこの辺で(強引


もし、この世界の真実について知りたいことあれば、
ご要望を教えてくだされば書いていきます。では。